さよなら、べき論
Palmtree時代から、いや、もっと昔からなのだけれど、「mustを捨てよう」ということを折あれば口にしてきた。
「~でなければならない」
「~すべき」
という「べき論」は、思考と行動に天井を作っていく。
紙をまっすぐに切ったりするには、効率のいい「べき論」があるけれど、人の生き方に「べき論」はないはず。ここにハマってしまうといつの間にか、四角四面な正しい人の型に自分や周囲を合わせようとしてしまう。結果、自分の行く手を阻むことになり、苦しみに突入する。
かくいう私も若い頃には、この「べき論」にはまってしまあったことがある。
いい人でいなければならない。
強くなければならない。
笑顔でいなければならない。
わがままを言ってはならない。
冷静でいなければならない。
あ~、思い出しただけでも胸が苦しくなりそうだよ、コレっ!
この当時(たぶん、20代前半)の私の座右の銘は
『負けない、逃げない、諦めない、死ぬ時には笑って死んでやる』だった。
いや~、痛いねぇ。まったく、痛い座右の銘でした。苦笑いしかできないよ。
なにがあっても、上記5つの「しなければならない言葉」に従って行動し、苦しくなると座右の銘を念仏のように唱えながら、スマイルな私を装って仕事をしていた時代。ばかだなぁと、今なら思う。これしかやり方を知らなかったからそうしていたのだけれど、あまりにも健気で抱きしめてあげたくなっちゃうなー(笑)。
だから、今、「べき論:must」にがんじがらめになっている人に会うと、思うんだ。
つらいでしょ、きついでしょ、って。もっと自由に生きていいよと言いたくなる。
そんなになにもかも自分が背負わなくていい。いい人なんかでいなくていいよ、って。
「●●のせいで、こういう道しか選べない」「選択の自由はない」とかね、こういう人に限って言うんだ。
でもさ、そういうのって、たんなる思い込みだから。自分で選ぶことが怖くて、べき論を言い訳にすることもよくある。だけどね、人は、どんな道を選ぶことでも出来る。こうでなきゃいけないことなんか、ない。
ただし、自分で選んだことには責任を持つ。
誰のせいにもできないから、楽な道じゃないよ。
だとしても、ちっとも苦しくない。辛くもない。
道はある。数限りない選択の自由を、すべての人が持っている。
「ない」と思うのは、見えていないか、見ないようにしているか、そのどっちか。
ひとつずつでいいから「~でなければならない」と思っていることを手放してみよう。
もしかしたら、そんなに大変なことじゃないかもしれないでしょ?
オススメしておきます!
・・・そういえば、あれ以来、座右の銘ってないなぁ。
あの座右の銘も自作だし。
今はね、あの頃よりずーっとお気楽に、
そして、もっともっと真剣に毎日を生きているよ。
2 comments
由歌利姐さん、おばんです。
今日の日記を見て、思い出しました。
「阪本さんや由歌利姐さんのように葉山に住みたいなあ~」と言ったら、即座に「住めばいいじゃん」と言われて目が点になったこと。
あの時は勝手に「そんなこと出来ないな」と思っていました。でもあの一言で私は気づきました。「出来るわ」って。
ほんと感謝です(mm)
私も含め、人って自分で壁や限界を作っちゃうんですよね。
ぶんぶん、短い逗子生活だったけれど、アレはアレでよかったよ。
実行したぶんぶんは、とっても偉かったと思う。
この勢いを忘れずに、壁を壊しまくってね。
音羽の森のランチにいくには、いい季節になってきたよ!!
ほらほら、思いだすでしょ、あの心地よさ。うふふ♪
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