'GIVE & TAKE'の落とし穴
小学生、たぶん・・・4年生くらいだったのかなぁ、私。
めずらしく父が家にいた日曜日、タバコのお使いを頼まれた。
「いいよ。そのかわり飴が買いたいからお金ちょうだい♪」
と、新聞を読んでいた父に向かって、ご機嫌さんで手を差し出した。
そのとたん、父が真剣な面持ちで私を振り仰いだ。
「人になにかを頼まれたとき、見返りで引き受けるんじゃない!
○○してくれたら●●してあげる、なんていうことは、あさましいことだ」。
よくわからないけれど、しゅんとして手を引っ込め、タバコを買いに出かけた。
私の父は、おおよそ世の父親像からは程遠く、役割をはたしていない人だったけれど、滅多に会わない私には甘かった。それまでも、おつかいのお釣り(2-30円ね)は気前よくくれていたから、突然怒られてびっくりしちゃったんだよね。それ以来、きちんとした意味は理解していなかったけれど、交換条件を出すことはしなかった。
この出来事はばっちり私の記憶に焼き付いていたらしく、たま~に思い出すことはあったけれど、深く考えることはなかった。ただ、父のようにちゃらんぽらん(ゴメンね、とーさん)な人らしくない、まともな意見だったなぁと思っていたくらい。
今、大人になってみて、ようやくコトの深さをしみじみと理解しちゃうんだよね。
所詮、人に何かをしてあげるってことは「やる側の勝手」なわけ。
だとしたら、「見返りは求めない」のがあたりまえなんだよ、ほんとは。
世間でよく言う’GIVE & TAKE’の落とし穴、だね。
与えたら、もらえる。少なくとも「喜んで」もらえる・・・なんてことを考えるのは、たんなる自己満足、いたって自己中心的な考え方なんだ。
こちらが「きっと喜んでくれるに違いない」と選んだプレゼントだって、相手が本当に喜んでいるかどうかなんてわかんないでしょ。なのに、「あんなに一所懸命選んだのに・・・あのひとのためなのに、喜んでくれなかった」なんて、落ち込む方がおかしい。そうやって落ち込む人は、誰かになにか「してあげる」という気持ちを持つべきじゃない。贈り物もしちゃいけない。なぜなら、それはあなたが相手に「見返り」を強要している行為だから。
喜んでくれなくてもいいじゃん。自分がソレをあげたかっただけ。
受け取ってくれただけでも、こちらの気持ちをくみ取ってくれたわけだもの。
ここを理解できるかどうか、だなぁ。
ところで、話をすこし最初に戻すね。
父がこんな意見を言うタイプじゃなかったというのは、先に述べたとおり。
思うに、あの時たまたま、彼女のひとりに(昔から、常に複数のカノジョ・恋人がいた)見返りを強く求められ、えらい大喧嘩をしたんじゃないかな。「お金でも何でもあなたのいうとおりこんなに尽くしているのに、いつになったら籍を入れてくれるのよっ、約束が違うじゃないっ!!」。みたいな、ね。それで、娘にこんな女になられたら困るってことで件のタバコ事件になるんだろうな(苦笑)。
おおかたそんな真相だろうと思う。
父も父だけど、あんな父だとわかっていて尽くす彼女たちも彼女たちだったんじゃないかと、娘としては冷静に判断しちゃうけど。でも、この「見返り」についての考え・行動は、父のおかげで身についたのだから、心から感謝してます(^_^)
2 comments
痛い! ← 自分の痛い所は理解しているつもり...
手を差し伸べて、握手してくれないのは、とても痛い。
試されている”器”なんだと。
教育も自己中心的になっているのかな...
いつかは分かってくれると思って信念のもとに行っていても。
人生は修行ですから!意味なく試されることはないですよ。
教育は教える側の考え方(捉え方)ひとつで変化していくものではないでしょうか。「授ける」という上から目線なのか、もしくは、違う立場であっても「ともに学ぶ」姿勢なのか。教える内容は変わらなくても、教える方の心ひとつで世界は大きく変わります。
受講者の目が答えを教えてくれますヨ。
あせらずいきましょ!
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