完璧を探さなくていい
昔(たぶん昭和初期以前)の日本人男性の特徴は、「目がやさしい」ことだと何かで読んだことがある。目のやさしい男は、相手の背景までも見ているんだよと、その文章は結ばれていた。
目にやさしさを湛えているというのは、相手を受け入れている=心を開いて対峙している、ということなのだと思う。
人は合わせ鏡、こちらが好きと思えば相手も好意を持ってくれる。逆もまた真で、こちらの心に壁があると相手もまた心を開いてくれない。だからこそ、相手が警戒心なく心を開けるようやさしい目だったんじゃないかな。
でも・・・心を開いて対峙するというのはそう簡単なことじゃないよね。
壁を持っている人の表情や笑顔は、どこかしら硬い。相手はもう一歩踏み込んでいいものかどうか迷う。壁を持っている側からすれば、踏み込んでくれてもいいのに、そうしたら態度も変えられるのに、と思う。でも、心ある人なら、踏み込むことをやめるよ。
壁を持っている人は、人を寄せ付けたくないわけじゃない。
どちらかといえばさびしがりやが多い。
ただ、こわいんだ。不法侵入されたり、信じて傷つくことが。
だからね、いまだに壁を持っている人に出会うと間合いを詰められない。
申し訳なく感じちゃうんだ、気持ちがわかるから。
「悪意はないです。どこまで入っていいですか?」。と訊けたらいいんだけど。
訊けないから(笑)、そっとしておくわけ。
さて、と。
私が、自分が持っている壁に気がついたのはいつだったかな。
小さな頃から薄々気づいてはいたけれど、しっかり自覚し始めたのは20代後半だろうか。人当たりはいいくせに、どうしても心を開ききれない中途半端な自分。
あの頃の自分にはほとほと手を焼いた(笑)。
いつ壁がこわれたのか?と問われても、答えられない。
なくそうと意識したわけでもないし、大きなきっかけにも思い当たらない。
私はなんのために生まれてきたんだろう?
もうすこし前にすすみたい。
もう少しだけ、楽に生きていきたい。
しいていえば、30代の半ばで、そんなことを思ったんだ。
たぶんここから、いろいろなことに気付き始めた。自分と向き合うことが一番痛かったけれど、痛みとともに一枚ずつ脱皮したような気がする。愛すべき友人たち、知らず嫌われ役を買って出てくれた人たち、同僚、家族、恋人etc. みんなとのあらゆる関わりがあってこそ、だけど。
傷つくこと、人を信じること、ついでにダメな自分を赦すことを許可したんだ、自分に。
欠点や短所、コンプレックス、ダメダメな自分を愛して仲良くすることにした。
そうしたら、気負いが薄くなっていった。
どこにも完璧なんかないんだよ、って思ったら楽になった。
壁が全くなくなったかと問われれば、Yesとはいえない。
普段表に出てこないし、自分でもあまり気づかない。
でもきっと心の奥底の方には、低くて小さいのがまだあるよ。
あってもいいんだと今は思っている。一種の自我のようなものだもん。
今の私が「楽」に見えるとしたら、このおかげ。
昔は、今よりずっと、どうにもならないことがたくさんあったはず。
どうにもならないことを飲んだ上で、人の世に生かされている自分は、せめて目の前の相手を受け入れようと、言葉にならない背景をも見ていたのかな。
やさしい目は、ままならぬ昔の世に、素直に、でも真剣に、人を見ようとしていたからなのかな。
心を開いて人と対する。
相手に心を開いてほしければ、開いてもらえる自分でいなければならない。
もしかしたら、礼儀や思いやりの一番大切なことかも。
これもまた、LOVE & PEACEの第一歩、だね。
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